自治体法務の備忘録

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62回目の、夏

 その朝、「母ちゃん、行くよ」といって玄関を出ようとした。
(略)
 ちょうど母は台所で朝の食器の洗い物をしていた。
 母は私の声が聞こえなかったのか、答えてくれなかった。別に気にとめる事もなく、爽やかな夏の空気に接し、胸を張って石段を駆け降りた。
 道に下駄が届いたとき、何時ものように後ろを振り向き、もう一度、台所の方を見上げた。すると窓が開いており、母が水仕事の手を休めて、にっこりと笑っているのが見えた。それが最後の姿となった。
 夏の朝の日差しをいっぱいに受けて、「母ちゃん」と呼びかける、その朝までは幸せであった。下駄の音をならしながら、何時もの道を出勤した。
 その日の夕方、全て焼け野原となった廃墟の丘に登り、視野が開けた時、ただ、呆然と立ちすくんだ。一体どういうことなんだ。一軒の家も残っていないじゃないか。倒れる材木を乗り越えて家に近づいた。
 家は燃え尽きていた。普通、火事になっても、柱が焼け落ちたり、家財道具が残る。原爆は爆風で吹き飛ばして、何も残らないのだ。
 母の死体を見つけることすら出来なかった。
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「十七歳の夏」小崎登明(聖母の騎士社

 著名なカトリック修道士としてご活躍されている著者は、爆心地から500メートルの距離に住んでいたものの、当日はトンネル工場内で勤務のために命を拾ったそうです。
 そういえば、長崎は教会群の世界遺産登録が提言される「祈りのまち」ですけれども、その「祈り」がかくも圧倒的な暴力に蹂躙された事実がなによりも悲しくてなりません。

 無キズな女の子たちが、四、五日たつうちに、髪の毛が抜け、皮膚に斑点があらわれ、下痢、発熱、食欲不振、虚脱感などの症状が出て、次々に死んでいった。これが放射能の恐ろしさだ。
 私は、一人死に、二人死ぬのを待ち、幼児の死体をタンスに入れて、重ねて、次に死ぬのを待った。三人死んだところで、原爆の丘で幼児の死体をまとめて、私一人で焼いた。
 人間の身体はそう簡単に燃焼するものではない。廃材や畳、雑誌類を死体の上に乗せて、朝から夜まで無心に燃やし続けて、やっと骨にした。こんな悲しい出来事はなかった。
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