自治体法務の備忘録

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凡て汝の手に堪ることは力をつくしてこれを爲せ

 お盆の準備のために仏壇の前からどかした祖母の聖書をもとに戻します。いや、クリスチャンであった祖母の形見が仏壇の前に置いてあるというのも妙な話なんですが。
 その際、ぱらぱらと開いてみますと、鉛筆で傍線が引いた箇所がありました。今まで何度かは開いてみたことはあったのですが、傍線に気がついたのは初めて。
 傍線箇所の前後を若干補って引用してみます。

生者はその死んことを知る。然ど死る者は何事をも知ず、また應報をうくることも重てあらず。その記憶らるる事も遂に忘れらるるに至る。
(「傳道之書」9章5節)
凡て汝の手に堪ることは力をつくしてこれを爲せ。其は汝の往んところの陰府には工作も計謀も知識も智慧もあることなければなり。
(「傳道之書」9章10節)

 祖母が親しんだ文語訳は、今の時代にはわかりにくいですね。最近の訳では以下のように記述されています。

生きているものは、少なくとも知っている。自分はやがて死ぬ、ということを。
しかし、死者はもう何ひとつ知らない。彼らはもう報いを受けることもなく、彼らの名は忘れられる。
(「コヘレトの言葉」9章5節)
何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。いつかは行かなければならないあの陰府には、仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ。
(「コヘレトの言葉」9章10節)

 少し説明をしますと、「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。太陽の下、人は労苦するが、すべての労苦も何になろう」と書き出される、旧約聖書中のこの「コヘレトの言葉」は、般若心経の「色即是空、空即是色」にも通じ、仏教思想との類似も指摘されています。また一方で、迫害に苦しんだユダヤ民族の、現実的な「知恵」をも見る思いがします。
 それにしても、日頃の仕事や重なる私事の多用で弱音を吐きそうな自分に、お盆という時節柄、記載の内容が妙な整合性をもって感じられました。