自治体法務の備忘録

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「地域主権」と「地域主権改革」

 「地域主権」という言葉が「地方分権」と同義として、あるいはその発展として使われるとすれば、おそらく理解を誤る。「地方分権」は「中央集権」を解体し「団体自治」を拡充しこそするが、「地域主権」の語は「住民自治」に概念が近いものと考えます。
 しかしながら、既に法的には「地域主権」の語に替えて「地域主権改革」の語が用いられていることは、あまり浸透していないようです。国会で審議中の「地域主権改革の推進を図るための関係法律の整備に関する法律」では、内閣府設置法の改正で内閣府の所掌事務に以下の追加があります。

地域主権改革(日本国憲法の理念の下に、住民に身近な行政は、地方公共団体が自主的かつ総合的に広く担うようにするとともに、地域住民が自らの判断と責任において地域の諸課題に取り組むことができるようにするための改革をいう。以下同じ。)を推進するための基本的な政策に関する事項

 「地域主権」の語については、憲法学者から批判があり、関係法律の一括改正法においてその語を用いる旨の情報が流れたときは、少なからず法規スズメのさえずりが賑わいました。
 その批判について、西原博史教授(早稲田大学)のご指摘が、手元にある資料の中では読みやすいので引用しましょう。

 「地域主権」という言葉が使われるようになった。デタラメである。地域が「主権」など引き受けられるわけがない。
 「主権」は国民全体に対する責任を意味する。近代国家は、同業組合や封建領主や教会などに分散していた権力秩序を破壊して、すべての暴力装置と、暴力を正当化するルールの体系を国法秩序の下に一元化した。そこに成立したのが主権である。従って主権は絶対であり−自分の存立を支える正当化理由と、それを文書化した憲法以外には−何物にも服従しない。そんな絶対的な権限を地域単位で組み立てようとするのは、主権国家の自殺行為であり、国民主権の最終的な断念でしかない。
 というのも、国家による権力独占には理由があった。国民一人ひとりの基本的人権を守ることである。あらゆる個別利害を超越したところで個人の権利を擁護する、そこに国家の存在意義があり、主権を構築したことによって国家が引き受けた責任がある。
地方自治職員研修」10年3月号(公職研)11頁

 もっとも、西原先生は、上記の厳しいご指摘の上で、「近代化以降の日本で主権の行使の仕方に関して築き上げられてきた根本的な欠陥構造」を言い表すため、この「非常識な形容矛盾」たる比喩を用いらざるを得ない現状があるとして、中央・地方における統治のあり方に論を展開させます。
 であればこそ、内閣法制局が「地域主権」の4文字に代えて選択した「地域主権改革」の6文字は「『地域主権』改革」ではなく、「地域『主権改革』」であることに注意が必要です。
 同法案の行方はなお不透明ですが、「地域」の最前線である基礎自治体においては、その運用を設計するに当たって上記の理解が不可欠でしょう。
 なお、補足として、平成22年2月19日の衆議院総務委員会における原口一博大臣(当時)の答弁を引用しておきます。

  • 主権は国家にあり、その国家にある主権は、一人一人の国民が中央政府に対してまさに統治というものを任せている国民主権に発したものでございまして、私たちが地域主権と言う場合に、これはよく、地域にさも主権があるのかというふうな誤解を受けていますが、そんなことはございません。つまり、主権を持つ国民がみずからの地域をみずからの責任においてつくっていくんだ、こういうことを申し上げているので、まさに委員の御理解のとおりのことを私たちも考えておるわけでございます。
  • 主権はあくまで、国家主権という意味での主権は国にあるわけでございまして、繰り返しになって恐縮ですけれども、主権を持っている国民が、みずからの責任においてみずからの地域を創造する、あるいはみずからの地域をつくっていく権利を行使していきましょうと。今までは、大変申しわけないですけれども、中央で決めて、義務づけ、枠づけを地方に押しつける、あるいは直轄事業負担金やさまざまなものを有無を言わせず取る、そういったことは国民主権から見てもおかしいのではないか。みずからの地域を創造していく、みずからの地域をつくっていく権利があるはずじゃないんですかということを申し上げているわけでございます。